私は、830gという超未熟児の双子の片割れとして生まれました(当時は珍しかったため北海道新聞に掲載されましたが、その記事は探しきれませんでした)。
姉は健康でしたが、私には障害が残りました。生まれつき左半身が不自由なことから、理不尽な理由でいじめられ、悪口・陰口を言われ、しかしそれ以上にたくさんの人から愛情を受けて育ってきました。
学生の頃はエネルギーにあふれ、研究発表でオランダに行ったり、日本全国にドライブという名目での逃避行をしたりと、様々な体験をしてきました。
特に力を入れていたのがトンボの保全研究です。勧められて始めましたが、学生時代はほぼこれ一色です(※今ではトンボを採りに野外に出かけることは無くなりましたが、トンボの図鑑や専門書を大切に残しています)。そのほかに地元でのホタル定着を目指した野外教育・研究をおこなっていました。
それから、大学に入ってから新しく活動を初めたのが障害児教育研究です。自閉症など、発達障害や身体障害がある子どもの学童保育をするサークルで活動していました。多くの人と関わりたいと思ったのと、私自身に身体障害があるので、障害のことをもっと知りたいと思ったからです。子どもの屈託のない笑顔は忘れられません。
また、母校の高校にて、教育実習(生物)を経験しました。
高校時代から始めたトンボの研究ですが、7年近く、顧問の先生による愛のムチが激しかったこともあり脳が萎縮・トラウマになり、実績や表彰と引き換えに自己肯定感は低下、そして研究は義務感でやっていることに気が付きました。好きならば言われなくともやります。言われなくてはやらない・やれない時点で、好きではないと悟りました。
学生時代の後半、スペインでの研究発表を最後に、トンボの保全研究から遠ざかります。完全に目的を見失ったからです。そして、目の不自由な方が外出しやすくなる環境づくりの研究に取り組みました。五感を活かして自然を体感する、新宿御苑でのネイチュア・フィーリング自然観察会に参加したことがきっかけです。
自然観察会では、障害の有無に関係なく樹木の葉や実を触ります。手触りだけで理解してしまう、全盲の方の素晴らしい感性に驚かされました。
それ以降、茨城県自然博物館のさわれる展示、まっくらやみのエンターテイメント「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」。こういった活動に参加し、研究の糸口をつかもうと試みました。
また、千葉県内にある鳥類の研究施設で、目の不自由な方向けの展示会に参加しました。鳥類愛好家である「鳥くん」がおりましたので、鳥に関するイベントです。秋篠宮ご夫妻が来場なさっておりまして、寝耳に水でした。空気が一変し、周囲がピリピリした雰囲気になっていたことは鮮明に覚えていますが、なぜ私がその展示会に参加することになったのか覚えていません。あと、千葉県知事がおりましたので、ご挨拶と名刺交換をしました。
一つ、コンビニでアルバイトをしていたときの印象的なエピソードをご紹介します。コンビニ店員の傍ら経営者もしている年の離れた先輩に、私の障害について、体が不自由なことについて伝えました。そのときの返答が『カミングアウトはしなくていい』でした。愕然としました。その方にとって障害は”隠すべきもの”という認識だったのです。経営者がその程度の認識なのは恥ずかしい! 働く際には障害について積極的に周知しておくべきことです。障害をもちながら働くことに対する違和感を覚えたのは、この頃からでした。
以上のように複合的な要因が重なり、目的を見失い研究が進まないなど極度のストレスから、メニエール病の発症、精神不安定になりうつ病を発症、そして二度の自殺未遂を経験しました。
会社員になると、仕事に忙殺されました。自分は何がしたいのかを考える暇もなく、ただひたすら言われたことをやる、時間が過ぎるのを待つ。そんな日常でした。君は素直だね、と上司や先輩から言われていたことを覚えています。
一般事務職でしたので実務経験を積めましたし、その経験は今も役立っていますが、当時は日々の生活そして仕事に対して物足りなさを感じていました。
上述の企業を含めいくつか職を転々としまして、すべて障害者採用枠で採用していただきましたが、どの企業においても経営者・上司・従業員ともに障害への理解や配慮が足りていないと感じていました。ある企業では多忙期には私の障害のことは忘れられてしまう。『頭にも問題があるんじゃないの?』と心無い言葉をかけられたこともあります。またある企業では私のことを厄介者としか見られていませんでした。
確かに一部の人は私のことを理解してくれましたし、常に障害への配慮をしてほしいとも思っていません。ですが、何のための障害者採用枠なのか、世のすべての企業に今一度考えてもらいたいです(私が社会人生活を辞めて7年、企業の認識はどのくらい変わったでしょうか)。
人は見た目ではわかりません。接客業で働いていたときに『第一印象は3秒で決まる』と経営者に言われました。ではその3秒でその人の内面まで、障害があるかどうかまでわかるのでしょうか。ほとんどの場合、わからないと思います。そこには見た目で人を判断する危うさがあります。
その人を知るには、実際に話してみて、何に喜び、何に怒るか、時間をかけて直に接してみなければわかりません。仕事であったとしても、です。
そして、障害の程度(重度、軽度)の違いは、生きづらさとは関係ありません。私はよく『障害の程度が軽くて良かったね』と家族や親戚から言われることがありますが、軽いからこそ見た目ではわからず、そのために誤解や偏見、いじめを受けてきました。すべては、見た目で判断された結果です。その事実を皆さんに知っていただきたいです。
私は言わば、軽度~中度障害の複合です。その場合、障害の程度は社会でどのように認識されるのでしょうか? 仕事をするからにはそれなりの適応能力が求められます。複合的な障害を持ちながら仕事をして収入を得るハードルの高さを、世の皆さんに理解してもらえるのでしょうか?
2013年、30歳で会社員生活を辞め、家に引きこもりました。何もしていなかったわけではなく、その間に自分が本当は何をしたいのかを確かめるために、ブログから始め、ウェブサイト制作、小説や漫画、アニメーションやゲームなどを作ってきました。
世間において引きこもりのイメージは良くないかもしれませんが、私のとって引きこもり期間は貴重な経験でした。確かに、家からは出ない、人と会わない、そんな生活が続きました。しかしパソコンを使った創作活動という体験を通して、自分を知ることが出来たのです。エネルギーを創作活動に費やすことが出来たのです。
そのなかでこれぞと思ったのが3DCGキャラクターです。初めて3D空間上でキャラクターを動かしたときは体が震えるくらい感動したのを覚えています。2014年の冬でした。
ところが、引きこもり期間中の2017年、同居していた母親が解離性大動脈瘤で急死。葬儀を終えて家にお骨を持ち帰った翌日、私のうつ病が再発しました。
救えたかもしれない命を救えなかった。自責の念に駆られた末路でした。頭に”もや”がかかったように思考停止状態になり、悲しみなのか鬱なのか原因がわからない涙が出てくる。着替えすらままならないのです。
家族に付き添われて病院に行き服薬を開始。それから1年以上薬を飲み続け、少しずつですが回復してきた頃。母親が生前に『安い給料でいいから外に出て働いてほしい』と言っていたことを思い出しました。
私はそれを遺言と受け止め、外に出ることを決意。紹介を経て、2019年、就労継続支援B型事業所「就労支援センターさくら」にたどり着きました。
さくらの職員さんは、センター長の川口さんを初め、皆私のことを肯定的に捉えてくれます。寄り添ってくれます。通所を続けるうちにその安心感があることに気が付きました。
引きこもり期間が長かったこともあり、人を信用できない気持ちを人一倍強く持っていましたが、ここならもしかして..と前向きに考えられるようになりました。
職員さんとの面談を通して、失敗なんて気にしなくていい。失敗は経験になる。そのようにポジティブな考え方を共有し、自己肯定感を育んでいきました。
通所を開始して1年半が経った2020年、メニエール病が再発。耳鳴りと、立っていられないくらい激しい回転性のめまい発作が起こりました。ゲーム制作に没頭していたのが祟ったようです。パソコンの長時間使用に黄色信号が灯りました。
にが~い薬による治療を続けたことが功を奏し、日常生活が問題なく送れるくらいまで回復したところでさくらへの通所を再開。
パソコンを使うことは必須ですが、その使い方、使う時間を見直さなければメニエール病が再発してしまいます。めまい発作を繰り返すごとに聴力が悪化し、最終的には両耳の聴力を失ってしまう可能性がある難病といかに付き合っていくか。
そこで、外に出る機会と人と関わる機会、そして運動する機会を増やすことにしました。「パソコンさえあればいい」から、「人と会って仕事をするなかでパソコンを使う」に気持ちを切り替えたのです。
以前から気になっていたフォトグラメトリの技術を用いた撮影サービスをしている企業に連絡を取り、モデルさんに依頼したり自分自身が体験したりと、活動の輪を広げました。
人と直に会って話しを聴き、自らのビジョンを発信するうちに、事業をするなら3DCGキャラクター制作!と確信を持てるまでになったのです。
ただ一つ残念なのは、同居している家族の理解を得られていないことです。『あんたには絶対に出来ないんだから辞めなさい』と言われます。現在は家族のサポートがあって生活できている状態ですので、家族が理解を示してくれることは私の望みでもあります。
最近になって変化がありまして、私がこうして行動し続けることによって、少しずつではありますが認識はしてくれる、つまり意欲を認めてくれるようになったと感じています。全面的に賛同してくれなくてもいい。この事業を継続することで、いつかは理解を示してくれるようになると前向きに考えております。
引きこもり期間が長かったこともあり、今まで私は一人で活動してきました。一人でできる範囲で活動してきました。社会人経験は多くはありませんが、たくさんの苦労を重ねてきました。
そのせいか、人それぞれに事情があること、そしてその事情により「出来ない」「やりたくない」人の気持ちがよくわかります。私はその人たちに寄り添うことができます。
私の知識・経験が足りないところは、さくら・センター長の川口さんを初め、職員さん、機材購入先の企業・株式会社元由アテンダントサービスの元由さんが全面的にサポートしてくれます。
「人に頼る」。これからも多くの人に支えられながら活動してまいります。
学生時代につまずいたのは目的意識が希薄だったこと。ガッツはありましたが自分で見つけなくてはならないときこそ目的意識や疑問は大きな意味を持ちます。社会人になってからも同様です。自ら考え、自ら取り組む。何より仕事を楽しむという姿勢が欠けていました。
今は違います。体中からエネルギーが湧いてくるのを実感しています。学生時代の頃とは違うエネルギーのように感じていますが、目標を実現したいという意欲は今が一番。行動を起こせば必ず成長できると信じています。
生まれつき身体に障害があり、うつ病、メニエール病の持病がある。そして引きこもり生活6年継続中。それでも私なりにできることはある。やりたいことがある。それは幸運なことだと思います。そして何よりチャレンジ精神があり好奇心旺盛で貪欲。それが私の取り柄です。
今までいくつもの転機がありました。その時々で私を支えてくださった方々がいたからこそ、今の私がいるといっても過言ではありません。体調第一としつつも、夢や目標に向かって精進しますので、何卒よろしくお願いいたします。
私と同じような引きこもり当事者を初め、障害をお持ちの方など様々な事情を抱えながらも一歩を踏み出したいと考えている方。応援してくださる方。わたくし引きこもり当事者の背中を押していただけたら幸いです。また、私が活動することによって、皆さまに元気や勇気、希望を与えられるよう願っております。
母が望んだとおりの働き方とは違うかもしれません。しかし『外に出て働いてほしい』 という望みを叶えて母を安心させたい。だから私は、大変でも、苦しくても、前を向いて生きていきます。
以上、お読みいただき有難うございました。